なぜこの世界は生きづらいのか?

アダルトチルドレンとして 世の中で生きることの辛さや、 思うことを綴ります。

学校の感想文に何の意味があるのか?

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小学校の時、読書感想文や運動会の感想文などを書かされましたよね。

あれって一体何だったんでしょう?

 

 

なぜ日本人は論理的な文章を書けないのか?

今回題材にするのは『「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然』という記事です↓

toyokeizai.net

 

論理的な文章を書けない要因として以下の3つが挙げられています。

文化的要因

日本は昔から単民族で多文化性が低かったため、

「空気を読む」習慣があります。

 

相手の気持ちを汲み取ったり、

逆に自分の気持ちを察してもらおうとしたりする傾向があり、

非言語でのコミュニケーションに依存した結果、

自分の意見を論理的に説明する必要性がなくなったと言えるでしょう。

 

言語構造の要因

英語は語順によって意味が変わります。

  • "He lives there now."
  • "Does he live there now?"

主語と動詞の順序を変えてクエスチョンマークを付けることで、

肯定文を疑問文にすることが出来ます。

このような言語を「孤立語」と言います。

 

一方で、日本語は「膠着語」と言われ、

品詞の活用や接頭辞・接尾辞を付けることで文意を変化させます。

  • 「彼はいまそこに住んでいる」
  • 「彼はいまそこに住んでいますか?」

「住んでい」まで全く同じなので、文末まで聞かないと文意を決定できません。

 

このような文末決定性により、論理が曖昧でもとりあえず語り出してしまい、

論理の一貫性を欠いてしまうと言われています。

 

国語教育の要因

記事で最も重要視されていたのが国語教育です。

 

もともと明治時代には、礼状や借金の催促状などといった、

大人が生活の中で使う文章を子供が丸暗記していたようです。

 

将来的に実生活で利用するとは言え、子供から見ればおそらく意味不明ですよね。

 

大正時代には自由主義の台頭もあり、

「見て感じたことをありのまま自由に書きましょう」

という流れになりました。

 

このときの考え方が現在の国語教育のベースになっており、

形式よりも子供の心情や態度を重視するようになりました。

 

戦後GHQの指導によりアメリカ式の作文教育(説明文中心)が導入されようとしましたが、従来の理念が強く、アメリカ式の作文は根付きませんでした。

 

そして、高度成長期以降、おなじみの読書感想文や学校行事の作文が生まれます。

生徒全員で共通体験をした上で、それぞれの生徒がどう感じたか、

自由に感想を述べることになったのです。

 

ホントに自由なら良いのですが、後述のとおり、

教員の指導に問題があると思います。

 

小学校の感想文の問題点

模範的な感想を強要させられる

感想というのは本来自由なもので、何を述べてもいいはずです。

しかし、教員に感想を指摘されることで、

「模範的な感想を書かなきゃいけない」と忖度してしまうのが問題だと捉えています。

 

私が小学生のとき、担任から

「ネガティブな感想を書くな」と言われた記憶があります。

 

学校行事なんてくだらないと思っていたので、

「つまらなかったです」と正直に書いたらなぜか不機嫌になり始めて、

私の感想を指摘してきました。

 

それ以来、学校の作文はガチで嫌いになりました。

 

中学校に入ってからは感想文ではなく意見文や小論文を書くようになり、

文章を書くのが嫌いではなくなりました。

 

クソみたいな忖度満載お遊び作文を卒業して良かったと思います。

 

なぜ模範的な感想を求められるのか?

では、なぜそのようにあるべき感想を要求されるのかと言うと、

文章を書くこと(国語)と人格教育(道徳)を切り分けられていないからだと思います。

 

先ほど国語教育の変遷のところで紹介したとおり、

大正時代から子供の心情や態度を重要視する考え方が根付いており、

文章の内容で子供の人格を評価してしまうのだと思いました。

 

学校行事に対して「楽しかった」「有意義だった」と肯定的なスタンスでなければ、

「協調性がない」「やることをきちんとやらない」「子供らしくない」というレッテルを貼られてしまいます。

 

そういった教育側の理想を押し付けるのではなく、

ありのままの子供の人格を受け入れるべきなのではないでしょうか?

 

意見文を書かせてしまえばいい

個人的な意見ですが、感想文ではなく意見文を書くようにすればいいと思います。

 

意見文には正解がありません。

肯定的であっても否定的であっても、自分の意見を論理的に述べることができれば良いのです。

 

アメリカでは自分の意見を述べること(エッセイ・ライテング)を小学校から重点的に教わるそうで、

自分も小さい頃からそういった書く技術を習得したかったです。

 

まとめ

小学校で書く感想文では論理的に文章を書く能力が身につきにくいので、

もっと意見を述べる練習がされるべきというお話でした。

 

大人になってから他人の文章を読んでいると、

論理的でないため何を言いたいのか分からないときがあります。

 

私は15歳ぐらいのときから論理的な文章を書く練習をし、

小論文・論文を楽しく書いていました。

 

自分もこのブログを書くときは論理を気にせずに書いているときがありますが、

そのときの経験を生かして、今回のような論理的な記事を書いているのです。

 

クソみたいな感想文から卒業すると、書くのが楽しくなりますよ。