中学受験は親の期待の押し付け
最近の東洋経済の記事で子供の中学受験と親の関係に関する記事を読みました。
私は中学受験をして中高一貫校に入りました。
母親は教育熱心であり、小学2年生の時から受験を意識して塾に入れさせられました。
初めは勉強が好きでしたが、小学5年生の時に嫌いになり、
嫌々受験勉強をしていたのを覚えています。
今回は自分の中学受験を振り返り、親の心理を考えていきたいと思います。
記事の内容
東洋経済の記事で述べられていたことはこんな感じ。
- 理屈を作った上での罵声や罰は「理性の皮を被った感情による暴力」である。
- 教育虐待しがちな親の特徴①:学歴コンプレックスがある。
- 教育虐待しがちな親の特徴②:受験人生において負け知らずの結果、最短ルートから外れることを恐れている。
- 偏差値で子供や親の能力が数値化されることで、有名校への合格=できる親の証となる。
- 中学受験の目的は、結果ではなく定めた目標に対して努力するプロセスの中にある。
私が中学受験した時のエピソード
勉強が好きになる
先ほど「嫌々」と言いましたが、元々は勉強が好きでした。
塾に通うようになったのは小学2年生の時。
出来なかったことが出来るようになるのが楽しく、
人よりも物をよく知っていることで優越感を感じていました。
公立の小学校6年生で学習する内容を3年生の時に教わるため、
学校の勉強ではクラスで1番になるのが当然になり、
周りからは「天才」と呼ばれました。
4年生の初めに首都圏で最もレベルの高い塾に移ることになり、
その中でも1番上のクラスまで上がりました。
この頃は楽しんで勉強していたので自然と努力できていましたし、
競争相手が少なかったので結果を出すのは容易だったと思います。
勉強が嫌いになる
ところが、5年生の途中から勉強が嫌いになってしまいます。
それまでは暗記で点数が取れていましたが、
問題が高度になったことで思考力が必要とされるようになり、
論理的思考力の無かった私は算数と国語の授業についていけなくなりました。
点数が取れない→先生や親に怒られる→やる気がなくなる→勉強しなくなる→・・・
の負の連鎖が始まり、
最も上のクラスから半分より下のクラスまで転げ落ちました。
「また今日も授業で怒られるんじゃないか?」
と算数と国語の授業がある日はビクビクしていました。
ただ、理科社会は変わらず得意だったので、
能力パラメータはこんな感じに尖ってました。
志望校のレベルを下げて合格
受験は理科社会だけでの勝負ではなく4教科合計での勝負なので、
当然成績が下がった私は志望校を下げざるを負えませんでした。
それでも大学受験で実績のある進学校(第一志望)に晴れて合格しました。
ですが、合格したこと自体に嬉しさは感じませんでした。
「ようやく好きなように遊べる!」
「成績が悪いことで怒られることがなくなる!」
というように、勉強から解放された嬉しさばかりでした。
また、塾の授業や宿題で言われたことをやってきただけだったので、
「自分のおかげ」という実感もありませんでした。
見栄のために子供に勉強させる親
ここまで自分視点で中学受験を振り返りましたが、
私の母親は自身の見栄のために勉強させていたと思います。
私は確かに勉強が好きでしたが、受験したいと思ったことはありませんでした。
しかし、小学校低学年の頃から中学校を見学したり、
受験のための塾に通ったりしたことで、
「受験しなければいけない」というmust思考になっていました。
勉強したくないという私の気持ちを受け入れてもらうことは無く、
勉強をサボっていると、
「あなたが受験したいと言ったんでしょ!」
と責任転嫁されて自分が悪いことにされる始末。
母親は高学歴で、元から偏差値で人の優劣を決める人間なので、
子供の偏差値が高い=偉い=育てた自分(母親)も偉い
という方程式を頭の中で描いていたのではないでしょうか?
この方程式は逆にも当てはまり、
子供の偏差値が低い=ダメ=育てた自分(母親)もダメ
となってしまうため、
私の成績が悪くなると自分の見栄を毀損されるのを防ぐために、
ヒステリックに怒っていたのだと思います。
まとめ
自分の親は引用記事で述べられていた特徴②(最短ルートから外れるのを恐れている)に当てはまり、
なおかつ自己肯定感の低さゆえに、世間的に良いと思われる方向に子供を育て、
自身の評価を高めようとしたのだと思いました。
それに気づくのに10年以上かかるとは・・・。
そして親の期待の押し付けによって生きづらさを抱えることになるとは・・・。
子供を育てるというのは難しいものですね。